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2016年11月19日

応用倫理学のすすめ


『応用倫理学のすすめ』完読。

倫理学は、善いか、悪いかという判断の根拠となる原則を研究する学問。

「他人に迷惑をかけない限り何をしてもいい権利」(自己決定権)によって個人の権利は守られている。

しかし、ポルノグラフティー、代理母、自殺等に関して、個人が他人に迷惑をかけないとしても、社会の側が干渉したり、個人の自己決定権を制限するのは何故か?

はたまた死刑は、廃止すべきか存続すべきか。
「死刑廃止は今では世界的な傾向だ。先進国で廃止に踏み切っていないのはアメリカの約40州と日本だけだ」
という。

死刑廃止論は冤罪問題を根拠にしている。
判決の間違う可能性がゼロにならない限り、死刑はゼロにすべきという主張。
死んでしまった後で冤罪が発覚したら取り返しがつかない。

一方で死刑存続には二つの理由がある。

ひとつは「つぐない論」
殺人を犯したものが死刑になったところで被害者の命は戻らない。
しかし、被害者遺族の感情をなだめることができる。
これに対して死刑廃止論者は、復讐心を充たすという低俗な意味しかないと批判する。

もうひとつは「みせしめ論」
死刑制度を設けることで、未来の凶悪犯の増加を抑止するという主張。

だけど、そういう主張はマトモな人間には通用するが、俺みたいなマトモじゃない人間には糞程も意味はない。

今日、俺は死刑で死ぬ。
罪状は三件の殺人と五件の放火だ。
もともと死刑になることが目的だったから、あっさりと捕まった。
いや、捕まってやった。
俺は罪を認めているし、ハッキリと死刑を望む事を明言しているのに、死刑判決から執行まで13ヶ月もかかった。それでも早い方らしい。
どうして死刑で死ぬ為に罪を犯したのか?自殺ではダメだったのか?その事は裁判でさんざん話したからここでは言うつもりは無い。
ただ、そうしたかったから。
それだけの理由だ。

「時間だ。出ろ」

俺は看守の指示に従い牢屋から出た。
今まで色んな所で寝起きしてきたが、ここが一番落ち着けた場所だった。
結局、俺は生まれながらの犯罪者だったわけだ。
三人の看守にガードされて、俺は絞首台に上がった。
そこには一本の太いワッカ状のロープが垂れ下がっていた。
今からそのロープに頸をかけ、吊り落とされて俺は死ぬ。
俺みたいな頭のおかしい人間に死刑制度は通用しない。

「前に出ろ」

俺は看守の指示に従い、一歩前に出た。
目の前に首吊りのロープがぶら下がっている。看守は俺の頭に黒い布袋か被せた。
そしてその上からロープを通し、俺の頸を軽く締めた。
いよいよだ。 
今から床が落とし穴のように開き、頸を吊られたまま俺はブラブラと揺れて、この世とオサラバ出来る。
さぁ、早く落とせ。さぁ、さぁ、さぁ!

「10分経過。絞首刑終了しました」

え?何を言ってるんだ?俺は黒い布袋を被ってロープを頸に通されただけで、その場に10分も立っていた。
やがてロープが外され、黒い布袋も脱がされた

「間宮正平は本日を持って死亡。貴様はこれより国有財産番号4736号だ」
「何?どういう事?」
「もう貴様には人権は無い。これより貴様は物として扱う。国家の財産の一部になった」
「え?何?何なの?死刑は?」

意味が分からず混乱する俺の耳元で、死刑執行人はこう呟いた。

「まだ、わかんねぇのか。死刑で死んだのはお前の人権だよ。戸籍上、お前はもう死んだ。肉体は国家財産として国が没収したんだよ。今からお前は人体実験に使われる。医学の発展の為に」

「人体実験?」

「簡単に死ねると思うなよ。それがお前の償いだ。・・・本日の死刑執行、これにて終了」
   



Posted by koujun at 11:37│Comments(0)
 
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